【ソンユガンのブドウ栽培】サステナブルなブドウ栽培〜福岡正信氏の哲学〜

【ソンユガンのブドウ栽培】サステナブルなブドウ栽培〜福岡正信氏の哲学〜

前回記事で、私の「決心」について書き綴った。

 

「その土地に合った病気に強い品種(作物)を育てること」が、サステナブルなブドウ栽培であるという結論。病気に強い品種であれば、散布しなければいけない農薬の量を極限に減らす事が可能になり(究極は無農薬)それは同時に自然への負荷を減らし、且つ生産者の精神的肉体的負担をも軽減する事ができる。

 

高品質なワインを生み出すための「ブドウ品種」という観点からすれば、日本生まれの交配品種は、ヨーロッパ系品種に劣るかもしれない。しかし、多雨多湿な日本でワイン造りを目指しブドウを栽培する意義とは?

 

自然に寄り添い、農薬に極力頼らずに栽培できるブドウ品種を育てる。そして、その育てたブドウで最大限に高品質なワインを醸す努力をする。これが私の考える「日本でブドウを栽培する意義」である。

 

自然も栽培する者も疲弊する農業は決して「正」ではない。

 

 

決心に至るきっかけ

今こうして強い決心ができた訳だが、初めからそう考えていた訳ではなかった。最終目標が「高品質なワイン」という点で、やはりヨーロッパ系品種に分があることは承知していたし、事実、植樹したブドウ品種はヨーロッパ系が主体であった。

 

しかし、多くの学びの中で、自分の考えがいかに自分本位で自己中心的であったかを思い知らされ、結論、「自然あっての自分」「自然あっての農業」という本質で物事を考え始めた結果、「自然に寄り添い、その恵みを頂く」という正しい道へ進むべきだと標してもらえたのだった。

 

 

決定的な学び

大きな学びを与えてくれた「自然」以外に、決定的な学びを与えてくれた人物がいる。その方の名は「福岡正信氏」。彼の哲学(無の哲学)が、私の迷いと悩みを一撃ですべて吹き飛ばしてくれた。

 

 

福岡正信氏

福岡正信氏とは?と聞かれて一言で答えることができる人がどれ程いるだろうか。

自然農法の人、粘土団子の人、わら一本の革命の人…

サステナブルに興味のある方なら氏について知っているかもしれない。

自然な農を営む方なら氏について学んでいるかもしれない。

 

コロナ禍をきっかけに世界の価値観は大きく変化し、その価値観(思想)は西洋ではなく東洋に移行していく中で、氏の思想に再び注目が集まっている。

 

私の悩みを一撃で吹き飛ばし、また一からスタートする決心を与えてくれた氏の思想(哲学)。

氏の「無の哲学」を構成する3つの要素

(1)無知(人は何も知りえない)

(2)無為(人は何をなしえたのでもない)

(3)無価値(人のつくったものに価値はない)

そして、自然と人間の本質、私たちの進むべき道。

 

ここでは紹介しきれないほど多くの格言の中から、特に心に響いたものをいくつかご紹介したい。

 

※「無の哲学」については、それを標題にした三部作の著書(無I“神の革命”、無II “無の哲学”、無III “自然農法”)の中で詳しく説明されている。著書内でその哲学を様々な角度から説明し、さらに人間の思考、行動、活動などその全てを否定しながら、その真理を語り、そしてその無の世界への道筋を示している。

 

 

格言1:無為

【麦は麦の種から発生し、お米は種籾から誕生し、稲が一万倍に増えるだけである。柿は柿の種から生まれ、柿の葉も幹も根も花も実もみな柿がつくる。人間の手や智恵は何一つ使うことなくできることを、利口な人間ほど知らない。人間の智恵は、米粒一つ、柿の葉一枚つくれないことがまだ分かっていない。

お米一粒の価値はダイヤに勝り、その力(エネルギー)は原爆何百個以上の力を秘めており、人間の智恵と力で「物をつくる」なんて天の眼からみれば笑止千万である。

無為天成、すべては自然という神がつくり、万物を生かしているだけである。人はその恵みを感謝して生きているだけでよい

(著:自然を生きる)

 

 

格言2:自然

【神が天地万物を創造したのでもなく、まして人が差配できるものではない。

大自然の万物の心が合体して生命を創り、神を創造してきたのである。神も自然も人間を超越した実在である】(著:わら一本の革命)

 

【人間は自然というものを知っているように思っているが、“自然を知っているのではない”ということを知ることが、自然に接近する第一歩である。自然を知っていると思ったときには、自然から遠ざかったものになってしまう】(著:わら一本の革命)

 

 

格言3:人間の本質

【人間の“なぜ”とはなぜだ?

人間は不可知の世界を不可知として放置することができないで、なぜかと疑惑する。不可知の世界も人間にとっては、 不可知の世界という可知の世界、として到達しうると考えるがゆえに、不可知もまた可知の世界として錯誤する。

もし人間が、不可知をそのまま不可知とし、すなわち無となしうれば、人間は“なぜ”と反省し苦悶することもなかったであろう。

池の中の魚にとっては、池以外の世界は、不可知の世界であり、無の世界であるがゆえに、彼らは池の外を思い慕って迷うことはない。人間は地上に立って、なお人間以外の立場に思いをめぐらす、やっかいな動物である

人間はいずこより来り、どこに住み、どこに去るべきかを知りうべくもなくして思い、昨日なぜ生まれ、今日いかにして生き、明日何のために死なねばならぬかを…常に想い、常に惑い悩んでゆく。疑惑の雲の中にただよい、迷う人間の生と死の姿、懐疑と苦悩に満ちた人生を、あえぎながらさまよい歩く人間の姿は、真に不可避の宿命であろうか。人間の立場が根本において不明であるという悲劇のゆえに、人間の生は死は、“なぜ”という懐疑の雲につつまれてゆく。だがそれにしても、人間の心の中に、なぜを“なぜ”とする懐疑がどうして湧かねばならぬのか。人間はなぜ“なぜ”を所有せねばならぬのか。

池畔に咲く一茎の草花を凝視するとき、花の上に何の懐疑も見られない。この花には“なぜ”はない。

なぜ彼らの世界には、“なぜ”がないのであろうか。

彼らは自己を知らない。もとより生もなく死もない。自己を識らない彼らには、何の懐疑も起こりえない。

自己を識るという人間、生を知り、死を知る人間、そこに人間の懐疑の芽が発生する。人間が生と死を認識した。そのときから、人間は“なぜ”と思う心をいだくようになる。“どうして”と考えはじめるのだ。

人間は生きている…。しかもなお人間は生きねばならないと言う…。生が生と死に分離し、生と死が断絶したのである。この事柄を中心として、人間に数多くの苦労がつきまとって離れない

生命を保つために食物をとらねばならない。田畑を耕して作物を作る、家を建てる、衣物を織るなどが、そしてこれらはすべて、人間が生きていくためには当然必要な事として、人々は何の疑問を抱くこともないようである。

しかし、人間は生きている。この生きているという事実を直視するとき、そこには奇妙な矛盾が存在する。はたして人間にとり“生きねばならない”とする心が真実必要なことであり、人間が生きていくために食物をとり、家を建てるというようなすべての勤労が、絶対必要な事柄であろうか…。

考えてみれば、この生きねばならないという心は、この地球上の生物の中で、ただ人間のみが抱く心である。また生きるために必要とされる“仕事”と名づけられるものは、実にこの数多い生物界の中でも、ただ独り人間のみである。

無心に生い茂る草木、何の屈託もなく生きていく鳥獣、ただ地上に生え、ただ生きていく彼らの姿! そこには何の作意も手段も講ぜられることがない。しかもなお彼らは天命を保持していって何の苦労もない。

人間もまた一個の生物である。生物として地球に生まれ、出現し、成長していることは間違いがない…だのに、なぜ人間の上にのみ“生きねばならない、生きようとせねば生きられない”という言葉が必要なのか。また生きているために遂行させられるというあらゆる苦労を、なぜ他の生物と違って背負っていかねばならないのか?…。

人間は天命をもって生まれた。そして成長する。だのに人間が自ら人間は生きているという事柄を自覚し、そして考え、そして自分で生きようと覚悟したときから、人間は大自然の生命から離れ、独自で自分の生命を守るためのあらゆる努力をはらわねばならなくなった。

人間が大自然の懷から離脱し、独自の生活を自らの手で始めた。それは他の生物とは全く離反した道であったが…そして人間は自分の手で生きねばならないと考えた時から、人類は永遠に解消することのない苦労の荷物を背負わねばならなくなった

人間は生命を付与せられて地上に生まれた一個の生物である。人間が生物として地上に出現しえたという事実は、何よりも人間が大自然の児であり、自然のままにおいて当然生きゆきうる力が必然的に付与せられていることを意味する。

もし人間が、ただ天寿をまっとうして、生きてゆくのみで満足しうる生物で終わったなら、そして鳥が野の木の実をついばみ、蝶が蜜をたずねて生きてゆくように、もし人間が野の草を摘み、木の実を拾って食うことに満足しえたならば、人間にとって生きねばならぬという言葉は必要でなく、そして食物を作るという考えも、田畑を耕すという苦労も知らなくてよいはずであった】

 

福岡氏の著書の中で、人間の核心に迫る重要な一文である。

「無の哲学」の根本的概念でもあり、人間がなぜ苦労の荷物を背負わなければいけないのかが書かれている。人間の本来の姿、「無」をもって生きることができれば、その荷を降ろすことができるのだと。

それは、氏の想う「無為な生き方」そのものである。

 

 

格言4:進むべき道

【何かに迷い、求めさまよう人間は、何かにすがり、何かを獲得し、前進しようとした。が、相対の世界からの脱却は、人間が獲得し前進する方向にはない。

多くを学び、知恵を獲得し、力と富と権力を使って、人間の真の歓びや、真の幸福が獲得せられると思うのは間違いであった。

大自然は完全である。実在は完全であり神である。もともと実在する人間は完全であったが、人間は自らを不完全にした。不完全な人間が、完全な人間へ復帰しようとする道、その道こそ人間が相対から絶対へ飛躍する道でもある。

獲得でなく放棄、前進でなく復帰、生命の延長でなく、生命の時空超越、有でなく無の世界への悟入こそ、人生の目標である。そして、人間がその目標に到達するにはただ…

“何もない。人間は何でもなかった。何事を為したのでもなかった。為す必要もなかった。自然の生命に帰ればよかった“

この徹底した大悟の心を知る以外に道はない

 

 

福岡正信氏の願い

若くして大悟し、歓喜と苦悩のなか、その悟りを確信するために自然と向き合い「無の哲学」を実践された氏。

自然界から離反した人間をことごとく否定批判し、自然農法というかたちで無為を証明し、人間が本来向かうべき道をしるしてくれた。

 

インドでは最高名誉学位を授与され、アジアのノーベル賞と称されるフィリピンのマグサイサイ賞を受賞、世界では砂漠の緑化に貢献し、海外で福岡氏を尊敬する者は非常に多い。しかし国内では… 事実、農に従事する者でさえ知る人はあまりに少ない。

 

コロナで世界の価値観が変わり、世界の流れは東洋的思想に傾く中、福岡氏の「無の哲学」に再び関心が高まっているのは必然である。

 

著書「わら一本の革命」の初版発行が、1983年5月30日。

40年近く前から将来の環境問題や人間の生き方を危惧していた氏の思い

哲学へ逆行する社会への悲痛な思い

科学を科学的に徹底的に懐疑し突き詰めようとしたその思い

自然農法、粘土団子に秘めた想い

百姓への愛と慈悲…

 

福岡氏の叫び声が聞こえてくる。

 

今こそ私たちは「無」に還るときである。

 

 

最後に

 

 

私は、一昨年の春から昨年中ずっと思い悩んでいたことがあった。

 

「なぜ人間は、野に舞う蝶や、空飛ぶ鳥のように自由に生きることができないのか…」

 

春のブドウ畑を舞うたくさんのモンシロチョウを眺めていてふと思った。

ひらひらと自由に舞い、お腹が空けば花の蜜を吸い、疲れたら花草の上で休み、雨が降れば葉裏で雨夜取りし、雄雌は求愛し..

季節は春、花は咲き、彼らに必要なものは全て揃っている。

 

花たちは、蝶や虫たちに受粉してもらうために鮮やかな色、甘い香りで誘惑し、彼らに蜜を与えながらしっかりと花粉を運んでもらっている。

 

ただ自由に生きているようで、与えられた自然の恵みを存分に享受し、自然の循環のなか、摂理に従い、ほかのいきものと共存共栄している様。

 

鳥にしても虫にしても、花にしても雑草にしても、木々にしても。

すべては苦労することなく(苦労はあるかもしれない)自然に生きている。

 

しかしなぜ、人間は働き、時間なく、自由に生きることができないのか…

悩み考えたが、自己解決できるものはなく悶々としている中、「わら一本の革命」を再度読み返し、そして、未読であったった福岡氏の著書4冊を読み始めた。

 

そこに全てが書かれていた。

福岡氏の「無の哲学」、学問としての仏教、老荘思想、東洋の哲学的思考、覚者たちの哲学。

数千年前から多くの人たちが同じことを思い悩んでいたのであった。

そして、多くのヒントが過去の偉人たちから既に与えられていた。

 

答えはそこにあった。もう思い悩む必要はない。

目指す道は一つである。

しかし、生きているのはこの現代社会という世界。理想と現実。その狭間。

でも近づきたい。どこまで近づくことができるのか。

 

ブドウ栽培。無の哲学をどこまで実践できるのか。

 

ここからは挑戦あるのみ。

もう迷いはない。

一からスタートである。

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